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南極の人たち

日本の南極探検を切り開いた人たち

白瀬矗(しらせのぶ 1861年7月20日-1946年9月4日) 南極探検まで

白瀬矗が、南極探検を志す最初のきっかけは、まだ白瀬が11歳の頃、通っていた寺子屋の教師から聞かされた様々な冒険潭であったといいます。寺子屋の教師は、勉強の合間に、よくコロンブスやマゼランといった探検家たちの話しをしたようで、幼い白瀬は、その中の、特に北極探検の話に感動し、いつか自分も北極を探検するのだと決意したと言われています。
1879年、青年になった白瀬は、生地である秋田から軍人を目指し、上京します。これは北極探検には心身を鍛えなければならないと考えてのことでしたが、陸軍に入隊し数年経った1893年、白瀬は千島拓殖計画を進めるための千島遠征隊に参加します。この千島遠征は、千島に到着するまでに19名の死者を出し、白瀬も残留した越冬隊員5名も、内3人は死亡、1人はノイローゼを発症、白瀬自身も極度の体力低下を起こし危うく死にかけるという過酷なものでした。
1909年、アメリカの探検家ピアリーが北極点を踏破するというニュースを聞いた白瀬は、北極探検を断念します。彼は、前人未踏の地を目指し、目標を南極点到達に変更するのです。

南極を目指して

しかし、白瀬の南極行きは思うように進みませんでした。 翌1910年、白瀬は探検費用を補助してもらうため政府に働きかけますが思うように進まず、渡航費用の14万円は国民からの義援金により調達することになりました。
さらに船の調達も難航し、どうにか買い取ることが出来た船は積載量わずか200トンあまりの木造帆船。世界で初めて南極点に到達したアムンゼン率いるノルウェー隊の船が355トンであることを考えると、極地に向かうには貧弱な船であったと言えます。船に蒸気機関を取り付けるなどの改造が施され、1910年11月29日、白瀬は、「開南丸」と命名された南極観測船に、白瀬以下27名の隊員と29頭の犬と共に乗り込み、南極を目指し出港しました。航海中にはほとんどの犬が原因不明の死にみまわれたり、隊員間の不和問題が起こったりなど、多くの問題を抱えることとなりますが、翌年2月、ニュージーランドのウェリントン港に到着することができました。すぐに南極に向け出港しましたが、すでに南極では冬期が近付いており、このまま南極へ向かっては、氷に阻まれ、立往生の危険が増すと判断された為、南緯74度の地点で大陸上陸を断念し、引き返すこととなりました。

南極上陸

その後、1911年11月19日、新たに調達した探検用の樺太犬を連れて、再び南極を目指しオーストラリアのシドニー港を出港します。そして、白瀬たち南極探検隊は、翌1912年1月16日には南極圏へ到着。そして同月、とうとう念願の南極大陸に足を踏み入れます。
南極上陸を果たした白瀬たち探検隊一行は極地を目指し出発しますが、この年は夏期にも関わらず異例の暴風雪にみまわれ、前進は困難を極めることとなりました。思うように極地を目指すことが出来なかった白瀬たちは、同月28日、帰路の食料残量などからこれ以上の危険を冒し極点到達を続けることを中止すると決断、南緯80度5分、西経165度37分の地点を最終到達点として日章旗を掲げ、同地を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本の領土とすることを宣言しました。
その後、白瀬ら南極探検隊は、開南丸と別の汽船に分乗し、帰国。日本人初の南極探検は、一名の死者も出さずに終えることに成功しました。

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