2019
フレデリック・フランソワ・
ショパン

2019
フレデリック・フランソワ・
ショパン

「諸君、脱帽したまえ。天才だ」と、シューマンが驚いたピアノの詩人。

ロベルト・シューマンは、ショパンの変奏曲について音楽新聞に熱狂的な賛辞を贈りました。2019年は、没後170年にあたるフレデリック・フランソワ・ ショパンの筆跡をコレクションしました。ショパンは1810年3月1日ワルシャワ近郊ジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、10月には父ミコワイがフランス語の教師に就任するためワルシャワに引っ越しました。父はヴァイオリンとフルートを、母ユスティナはピアノを演奏し、ショパン家は音楽の絶えることのない 家庭でした。バッハ、ハイドン、モーツァルトの3 人を基 本に据えたヴォイチェフ・ジヴニーに学び、7歳で初めて作曲した《ポロネーズ ト短調》は早速出版されました。貴族のサロンが関心を寄せ、ショパン家の前には諸侯のお迎えの馬車が停まり、わずか8歳で社交界の花形役者のようでした。1830年20歳のとき向かったウィーンで夢破れ、1831年秋パリに着きます。 友人に宛て「今僕は自分を世界に売り出そうとしている。でもポケットには金貨一枚しかない」と書き送りました。当時ピアノ王と呼ばれたドイツ人音楽院教授フリードリッヒ・カルクブレンナーの引き立てで、 1832年2月26日プレイエル・ホールで初の演奏会を開きました。この成功がパリ音楽界にセンセーションを巻き起こし、夏にはパリ有数の出版社「モーリス・シュレザ ンジェ」と全作品を刊行する契約に署名。またライプツィヒから、そしてロンドンからも発行されることになり、1年も経たずパリ音楽界での地位と名誉を手にしました。ここでメンデルスゾーン、リストとも交流が始まります。フランスにはロシアの官憲に追われた多くのポーランド人亡命者がいたので、パリでは疎外感を味わうこともなく、ショパンもポーランド文芸協会の一員として積極的に奉仕活動をしました。ポーランド人貴族のサロンでの演奏は評判が評判を呼び、パリ社交界の最上級の人々が競うようにショパンの弟子になっていきます。オペラが大好きなのにオペラを書きませんでした。それでもピアノ音楽の可能性を求め、人が予感できなかった多様な感動 と芸術の極地を達成できることを世界に証明して見せたのです。学生時代の仲間の妹マリア・ヴォジンスカとの悲恋、男装の麗人、作家ジョルジュ・サンドとの恋、それらはショパンの作品にどんな影響を与えたのでしょう。

表紙 ショパンの書いた"ドレミファソラシド" ショパンの書いた”ドレミファソラシド”
1月 《ピアノ演奏の手引き》スケッチ 音楽の基礎となる音名や音階が丁寧に書き込まれている
2月 《階段を上るショパン》スケッチ 小説家ジョルジュ・サンドが描いたとされるカリカチュアのショパン像
3月 《橋のある風景》 1830年、ショパンが20歳のとき描いたと思われる風景画
4月 《マズルカ ヘ短調》スケッチ ショパン最後の作と思われていた楽曲 未完のスケッチ
5月 《肥満の男》 学生時代の作か、鉛筆でユーモラスに正面と横向きの姿を伺えている
6月 ショパンとサンドが仲良く一枚の便箋に書いた手紙 共通の友人ヴォイチェフ・グジマワ宛て
1843年6月の手紙
7月 ショパンのパスポート 1837年フランス警察から発行されたショパンのパスポート
8月 《シャファルニャ通信》 14歳の夏休み、ワルシャワ新聞を真似た
家族宛ての手紙
9月 ショパンのポケット日記帳 ショパンのメモ書きやドローイングなどがある
1834年版ポケット日記帳
10月 イギリスからの手紙 1848年10月21日付グジマワ宛てカリカチュアの入った手紙
11月 《幻想ボロネーズ》 まるで抽象画のように書かれた曲想
12月 父の命名日に贈った祝いカード 1816年12月6日、6歳のとき、父ミコワイに贈った手書きの祝いカード