2024
アンリ・マティス

2024
アンリ・マティス

愛と友情に万歳!

“愛はあなたのために。友情はわたしのために”アンリ・マティスが友人アンドレ・ルヴェール宛に書いたこの言葉は、マティス作品に貫かれた心といえるでしょう。2024年は日本をはじめ、世界中で常に人気の高い、愛情と友情あふれる画家アンリ・マティスの筆跡を集めて構成してみました。
1911年型のルノーを時速5km以下で運転しながら風景を描いたという画家マティスを、絵を描く前にヴァイオリンを弾くマティスを、乗馬をするマティスを、ボートに乗るマティスを、想像してみてください。現代なら普通の人かもしれません。当時としてはかなり先を行く人だったのではないでしょうか。
さて、画家アンリ・マティスはどんな人生を送った人だったのでしょう。20歳のころ、親に言われるまま法律家への道を歩んでいましたが、あるとき虫垂炎をこじらせて療養していました。気晴らしにと母が贈った筆と絵具箱を手にしたとき、マティスは「これが私の人生だ」と確信しました。父を説得し、パリに出ます。そこで師ギュスターヴ・モローに出会い、同門ルオー、マルケらとの交流が始まりました。1905年サロン・ドートンヌに出品。その荒々しい筆致が「フォーヴ(野獣)」と呼ばれます。出品作《帽子の女》を画家志望の富裕なアメリカ人レオ・スタインが購入。その後、レオの兄夫婦もコレクターとなり、マティスを支えました。
1930年代、重要なコレクターのバーンズ博士からフィラデルフィア郊外の美術館の壁画を依頼され、出版人アルベール・スキラからはマラルメ詩集の挿絵を頼まれます。マティスは美術館の壁画の主題に《ダンス》を選びました。バーンズ博士はマティスがダンスのモチーフを初めて描いた1906年の《生きる幸福》を1923年に購入していました。実は途中で寸法違いが判明し、全面的にやり直した結果、二つのヴァリエーションが完成。ここでマティスがデッサンと色彩を同時に調整したいと申し入れ、切り紙絵の手法が採用され修正し完成させました。1941年マティスは大病に見舞われ、手術を経て生還します。術後、マティスは体力が弱り、ベッドで制作せざるを得ませんでした。助手の手で彩色された紙を切り抜く「切り紙絵」は新たな表現媒体として重要な位置を占めるようになりました。1947年に出版された《ジャズ》はこの手法を新たな表現媒体として確立する契機となりました。1948年からニース近郊ヴァンスの村はずれに建てるロザリオ礼拝堂の、建築から内装、司祭の上祭服まで全てを制作。4年の月日をかけました。晩年マティスはピカソと共に美術史の流れを変えた天才として崇められ、現代の芸術家に今なお大きな影響を与え続けています。ポップアートの旗手と言われた芸術家アンディ・ウォーホルは人生に何を心から望むかと問われ「マティスになりたい」と答えました。

表紙 ジャズ:画像一覧
1月 ジャズ:道化師
2月 シャルル・ドルレアン詩集
3月 ピエール・ド・ロンサール『愛の詞華集』
4月 軽業師
5月 版画を彫るアンリ・マティス
6月
7月 アンフォラを持つ女性
8月 葉に横たわる裸婦
9月 ピエール・ド・ロンサール『愛の詞華集』
10月 ステファヌ・マラルメ詩集
11月 ロザリオ礼拝堂・告解室の扉デザイン
12月 ロザリオ礼拝堂・陶板壁画「聖母子」