2021年は、34歳で株式仲買人から画家に転身した異色の天才ポール・ゴーギャンの筆跡を集めました。
1872年知人の紹介でゴーギャンはパリの株式仲買人となります。実業家として成功し、裕福な生活を送っていました。
休日に絵を描き、デュラン=リュエル画廊を通じてモネやセザンヌの作品を集め、ピサロ、ドガなどと懇意になっていました。
1876年サロンに初入選。1882年金融恐慌が起きると、翌年職を辞し、画家になります。
1886年芸術家の集まるブルターニュのポン=タヴェンに来ました。
ここで印象派から抜け出し、ゴーギャンは独自の絵画「総合主義」を確立します。
1888年ゴッホの誘いでアルルに。二人の天才は「黄色い家」でギクシャク共同生活を送りますが、
ゴッホの耳切事件で2ヶ月で破綻します。
1889年、革命100周年を記念したパリ万博開催中、ふとタヒチ島の案内記に触れ、ゴーギャンの「野性」の血が騒ぎます。
1891年4月、42歳、タヒチ島への一旅人となりました。そこの自然と現地人との野性的詩的生活はゴーギャンの絵画手法を広げていきます。
2年後パリに戻ります。個展でタヒチ作品を発表しますが、パリの人々にはタヒチの神秘と美が理解されませんでした。
1895年7月、二度と帰らぬ覚悟でタヒチへ向かいました。汚れた文明社会を捨てようとしたゴーギャンの絵と言葉が、今、私たちの心に、社会のありように語りかけてきます。
表紙 | 左:《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(部分) 右:ダニエル・ド・モンフレー宛て(1898年2月)の手紙の中に描かれたスケッチ |
---|---|
1月 | 《レダと白鳥》皿の図 1889年 |
2月 | 左 : ポール・ゴーギャン《アルルの女・ジヌー夫人》 右 : ゴッホの描いた《アルルの女・ジヌー夫人》 |
3月 | ポール・ゴーギャン素描帖-3 |
4月 | 《地面に座る農婦》 |
5月 | 《マオリの古代信仰》 |
6月 | 《ステファヌ・マラルメの肖像》 |
7月 | 《卓上の花と果物鉢》 |
8月 | 《ル・スーリール(微笑み)》木版画9 |
9月 | ゴーギャンからゴッホ宛ての手紙に描かれたスケッチ 《説教のあとの幻影》 1888年9月26日付 |
10月 | ポール・ゴーギャン素描帖-2 |
11月 | 芸術運動「総合主義」を唱える3人の男の半身像 左からエミール・シュフネッケル、エミール・ベルナール、ゴーギャン |
12月 | 《楽しさ(アレアレア)》 1892年 |